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【三国武将の武器】三国志に登場する武将の伝説武器一覧!

三国志といえば、日本でもゲームや漫画化されて馴染みのある中国文化ですよね。筆者も小学生の時に『三國無双』や漫画の『三国志』をよく図書室で読み漁っていました!

最近ではキングダムという漫画も大流行して、三国志ブーム再到来か!ってなってますよね。

今から三国志を知りたい人にも、子供の時に好きだった人も、もう一度三国志を一緒に見ましょう!って事で簡単に押さえておきたい武将と武器の名前(あまり知られてない)を紹介していきます!

呂布 方天画戟 (ほうてんがげき)

出典 http://www.e3ol.com/culture/html/2012-11/22695/22695_20121122_2.shtml

生年月日:西暦161年 後漢末期

出身地:五原軍(現:内モンゴル)

死亡:西暦199年

別名:飛将

丁原や蕫卓という中国の三国志で名を馳せた大名に、腕前を買われ軍を任せられるほどの武将へとなりました。三国志を読んだことや見たことある人はご存知の通り『三国志史上最強武将』との呼び声は高いです。

しかし最後は、曹操軍に捕まって処刑されるという最後を迎えてしまいましたが、腕力の強さや弓術、馬術の腕前は超一級品といわれています。

そんな呂布の武器は、『方天画戟』と言われる槍でした。槍でも、柄と並行して刀が両脇に付けられているため、突きや振り下ろす、防御などマルチに使用できる武器でした。古代の中国でよく使用されていた矛を改良して作られ、呂布の知名度が上がるにつれて、武器の知名度も上昇していきました。

関羽 青龍偃月刀 (せいりゅうえんげつとう)

出典 https://walshdist.com/y/42042.html

生年月日:西暦160年 後漢末期

出身地:北解県(現:山西省)

死亡:西暦220年

別名:美髭公

所属:蜀

蜀の創建者であった劉備の護衛隊からスタートした関羽は、人並み外れたど根性と義理堅い性格で、敵だった曹操や仕えていた劉備からも賞賛されていました。

曹操との直接対決で破れ、曹操の捕虜となった関羽であったが、曹操に実力を買われていたため、軍隊を率いて相手の首を取ってくれと嘆願されました。その依頼を受け、関羽は馬に鞭を入れ続け、荒野を走り回り、大将の首をとりました。

捕虜となった時は、殺されて当たり前だった戦国時代で、味方として引き入れてくれた曹操に恩返しをしただけだと、義理堅い一面も見せました。しかし本当の大将は劉備ただ1人だと、曹操軍を離れ、劉備軍の残党の元へ向かったという男気溢れる人物です。

そんな関羽が愛用していた武器は『青龍偃月刀』という大刀です。偃月刀は、中国に広く知れ渡っていた武器の一種です。青龍という名前が入っているのは、刃に龍の装飾がされていることから名付けられました。

その大刀は、約20キロもあったと言われています。関羽は大柄のため、軽々持ち上げ、敵をバッサリと倒していたんでしょう。

張飛 蛇矛 (だぼう)

出典 https://kknews.cc/zh-sg/history/re4eqbo.html

生年月日:西暦167年 後漢末期

出身地:タク郡(現:北京市)

死亡:西暦221年

別名:燕人

所属:蜀

生涯を劉備の護衛隊として捧げた珍しい武将です。最初は劉備の戦の兵士募集に関羽とともに加わりました。関羽は頼れる男気溢れる男だったため、年下の張飛は兄貴として慕うようになりました。

それぞれ命をかけて劉備の護衛をし、功績が認められ、一軍を率いる大将として戦を任せられるようになりました。呂布も劉備軍でしたが、一揆を起こし劉備軍を壊滅させようとしました。その時に呂布軍に敗北を喫しましたが、呂布討伐の戦で曹操と戦同盟を組んで撃退しました。その時の功績が讃えられた張飛は、一気に有名武将として長知れ渡るようになりました。

呂布との戦いをも制したと言われる、張飛の武器は『蛇矛』と呼ばれる、まさに蛇のようにくねくねした槍です。巨体な2人として敵に恐れられていた関羽と張飛ですが、やはり持つ武器も巨大で長さは4mもあったと言われています。

ちなみに張飛は、30歳前半の頃に薪を切っていた13歳の少女に一目惚れをし結婚しています。しかも超体罰主義で、死刑や鞭打ちの刑を、自分の軍の部下に行っていたため、それに反逆した部下の同士によって殺されるという悲劇の結末があります。

曹操 倚天剣 (いてんけん)

出典 https://k.sina.cn/article_6747030670_19227848e00100dc8c.html?from=history

生年月日:西暦155年 後漢末期

出身地:沛郡(現:安徽省)

死亡:西暦220年

別名:治世の能臣・乱世の奸雄

所属:魏

三国志の中では、抜群の策略家であり、腕の立つ武将という敵なしの存在でした。曹操は若くして戦に対しての知識に富んでいて、能力も高かったが、素行が悪く国の中での評判は良くありませんでした。しかし国の太尉だけは、曹操なら『戦乱の嵐を鎮め、統治することができるただ1人』であると、曹操の能力を高く讃えるほどでした。

20歳の時にはすでに国の役職についており、国を統治するに犯罪者などを厳しく制裁を下すなど、術を学びました。そのせいか、残虐者や独裁者として恐れられる悪役になってしまいました。

しかし戦では、蜀の劉備や呂布から頼られる存在で、戦をさせては曹操の右に出るものはいないとまで言わしめた武将です。

そんな曹操が愛用していた武器は『倚天剣』です。天も貫けるという意味が込められており、実際にも岩を泥のように切り裂いたと言われています。そんな剣を携えて、敵をバッサリと斬り倒しまくり、名声を得ました。

董卓 七星宝刀 (しちせいほうとう)

出典 https://baike.baidu.com/item/董卓/17359

生年月日:不明

出身地:涼州(現:甘粛省)

死亡:西暦192年

別名:おデブ(なし)

董卓といえば、おデブちゃんで有名です。お腹の上に火をつけたら、体の油で三日三晩燃え続けたんだとか。

その董卓ですが、一国の将軍として名を馳せていました。生まれつき、腕力が強く、馬に乗りながら両方の手で弓を打つことができたという特技がありました。

幼少期は農家を営んでいた董卓は、役人が来ると牛を殺してご馳走を振舞っていました。それが気に入られ、郡の役人に抜擢されました。そこでは盗賊を取り締まり数千人の軍を撃退し、捕虜にしたという功績があります。その後は、徐々に出世し、男気溢れる董卓を慕う部下が多数集まり、勢力を増しました。

皇帝が死去すると、二番手につけていた董卓は実権を握り、やりたい放題をしていました。そのせいで側近から反感を買い、曹操らによって暗殺計画が立てられ、最終的には養子になっていた呂布に殺されました。

董卓が使用していたとされているのは『七星宝刀』です。これはもともと曹操が所持していた、宝石が散りばめられた刀です。曹操が暗殺に打って出た際に、董卓に気づかれてしまい、剣を献上するふりをして誤魔化しました。代々受け継がれてきた伝統の刀が、最終的には董卓に渡ってしまうという珍事件が起きました。

劉備 雌雄一対の剣 (しゆういっついのけん)

出典 https://www.sohu.com/a/142209777_648760

生年月日:西暦161年 後漢末期

出身地:タク州(現:河北省)

死亡:西暦223年

別名:大耳児

所属:蜀

三国時代の蜀を創設した劉備は、耳が大きいことから大耳児とあだ名が付いていました。これまでかっこいい名前だったのにな、なんで劉備だけ…。

幼い時は、家が貧乏だったため、母親と一緒に内職をしていました。しかし劉備は幼い時から戦火に生きていたため、兵士たちに憧れを持っていました。趣味は闘犬と読書と言った、口数が多い少年ではなかったが、世渡り上手はこの時から始まっていました。

劉備は、その性格のせいか、いくつもの地域の長と仲が良かったです。その商人の1人が劉備の才能に気づき、大金を与えました。そのお金で仲間を集め義勇軍として、関羽や張飛を仲間に加え戦デビューを果たしました。

その戦がなんと大成功、その後も役職が与えられ、知名度は急上昇しました。その時の兵力は約1万兵にまで増え上がりました。それに注目したのが、蜀の頭領でした。劉備をスカウトし、二万の軍勢と装備まで貸し出しました。

しかし劉備の野望は大きくなり、この蜀をしてやろうと思うようになりました。兵士の大移動と見せかけて、軍の重鎮を暗殺したり、劉備軍のだった兵士に蜀の占領地域を奪ったりしました。そうして、壊滅していった蜀を占領し、劉備が初代皇帝に即位しました。

劉備は雌雄一対の剣を愛用していますが、三国志の中では戦闘シーンがないため、雌雄一対の剣を二本もって戦っていたのかはわかりません。しかし桃園の誓いで関羽と張飛と義兄弟の契りを交わしてから、黄巾の乱で使用されています。

諸葛亮 元戎(げんじゅう)

出典 http://www.wattsn.com/content/180626212953003.html

生年月日:西暦181年 後漢末期

出身地:琅邪郡(現:山東省)

死亡:西暦181年

所属:蜀

蜀を建国する劉備の良き相談役であった諸葛亮です。三国志と言ったら白い衣装に、変な帽子や扇子を持っている人をよく見ると思いますが、それこそ諸葛亮です。

劉備に才能を買われ、スカウトされます。蜀で持ち前の戦術眼で戦や内部情勢の的確なアドバイスを劉備にし、蜀の地盤をより強固なものにした第一人者であるといえます。

しかし戦術眼があったと言われていますが、あまり戦を好まない諸葛亮で、勝てる戦しか出撃しませんでした。蜀の中では、イケイケどんどんの思考が多く、諸葛亮は幾度も対立することになりました。

諸葛亮が出てくる戦は、百発百中のため、他の将軍からは『天下の奇才』と呼ばれ賞賛されていました。

そんな諸葛亮は、戦を有利に進めるために兵器開発にも尽力しました。その詳細は明らかになっていませんが、元戎と呼ばれるもので、弓矢を一気に10本発射することのできるものでした。それによって蜀の部隊編成は革新的なものになり、勝利を多く収めるようになったと言われています。

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